手が氷のように冷たい。
嗚呼、岩手の夜は、こんなにも寒かったんだ。
忘れていた、優しい日々に埋もれて…。
千夜呼の足がぴたりと止まる。
忘れはしない、この場所を。
この場所で愛しいあの人は、死んで逝ったのだから。
「慶おにぃちゃん、ヤクソク、はたしにきました。」
白い吐息とともに吐き出された言霊に反応するかのように
千夜呼の目の前に、慶が現れた。
『千夜呼…。』
「イッショにつれてってください、イッショにいたいでス。」
自分の命を捨てる事になっても、千夜呼を守りたい、生かしたい。
あの時の慶の気持ちを、千夜呼はちゃんと分かっていた。
けれど受け入れられなかった、どうしても。
愛する人との未来が無い事。
愛する人と二度と逢えぬ事。
自分のせいで愛する人が死ななければならなかった事。
受け入れる術なんて、分からなかった、分かりたくなかった。
自分ひとりだけ、幸せになんてなってはいけないと思った。
いつだって、幸せに、なりたかっただけなのに……。
「慶、おにぃちゃん。」
『千夜呼は本当は、頭のいい子だ。分かってるだろう?』
「なに、を?」
『俺が死んで君が絶望したように、君が死ぬと絶望する人がいる事を。』
「わかりません……知りません。」
『苦しかったんだね。』
「…はい。」
『それを、君の大事な人に味わわせてもいいのかい?』
「慶おにぃちゃん……ヒキョウです…。」
『そうかもしれないね。』
千夜呼の瞳から大粒の涙が次々こぼれた。
だ薬指に光る婚約指輪を抱きしめ、ふるえていた。
『千夜呼を愛してるから、傍にいたい。連れて行ってしまいたい。』
「…じゃあ!」
『でもこれはフェアじゃない。置いてきただろう?彼らを…。』
以前ひとりで千夜呼がこの場所へ来た日、慶と一つの約束をした。
-誕生日、千夜呼が孤独なままで、未だ傍らに誰もいなかったら
その時はここで会おう。迎えに来るから。-千夜呼の心は確かに孤独なままだった。
ぽっかりとブラックホールのように空いた心の空洞は埋まっていなかった。
けれど本当に、【誰も居ない】のだろうか。
その答えは、千夜呼自身が一番よく知っている。
知らない、気付かないフリをしていたかったのだ。
ただ慶と一緒に居たかったから――。
「ヒキョウなのは…ちゃこ、ですか。」
『ねぇ、僕は千夜呼と同じくらい頑固だ、知ってるよね。』
「…はい。」
『だから公平に、ゲームで決着をつけよう。』
「げーむ?」
『そう、それで、僕が勝ったらその時は…君を連れていくよ。』
「わかりました、ちゃこが慶おにぃちゃんに勝てたことなんて
一度も無いでス、だから、それでいいです。」
千夜呼は右手の小指を差し出す。
触れ合うわけの無かった小指同士が交わる。
その次の瞬間、千夜呼の身体はゆっくりと後ろへ倒れた。
最後に見たのは、慶の微笑む優しい顔――。
僕の、君を連れて逝かんとするチカラと
君を引き止めんとする、彼らのチカラ
強かった方が勝ちだよ
大丈夫、手加減したりはしないから…ね?
だから少しの間、お休み……愛しい千夜呼。
――勝敗を決めるのは、千夜呼の精神と身体――